【無料AI研修】支援現場のAI活用はじめの一歩

例えば、こんな解答例!?

「精神障害者は、仕事はできないのかね?」  

その衝撃の質問に出会ったのは、34歳のことだった。言ったのは、パソコン教室で知り合っ たMさんである。当時、病気にどっぷり浸かっていた僕にとって、挑発ともいえるその疑問は人生に対する劇薬だった。実際、僕の人生はそこでがらりと変わってしまった。

僕の患者歴の始まりは高校3年生である。部活のストレスから眠れなくなった僕に、精神科の医師が病名をつけた。治療法が見つかれば、あとは楽になる。そう喜んだ僕を待っていたのは、 閉鎖病棟への監禁と薬漬けの毎日だった。メソッドも新薬もないその頃に、それしか方法がなかったのはわかるが、わずか17歳の子供の人生を歪めるのには十分すぎる衝撃だった。 法律では患者の人権は、守られている。しかし、適切な治療を求めて、数々のドクターショッピ ングを繰り返した僕を待っていたのは、結局は従来の薬物と閉鎖病棟だけだった。僕は一旦寛解したが、うまくいかなかった。治癒したのではない、いったん病気が落ち着いた だけである。  

やがて、インターネットが流行った。勉強のために買ったパソコンにハマって家から出なく なった。1日のほとんどを画面の前で過ごした。大好きだった叔母から「あいつはもうダメばい」と言い捨てられたり、近所の人からゴミを見るような眼差しを受けた。周りのひとのせいではない。生活が乱れていたのは事実なのである。今振り返ると、その頃の自分に説教したく なるような気持ちを抑えられない。  

引きこもりになって2年がたった。  

履歴書にも「就職のために勉強をしています」という言い訳が通用しなくなり、自分に事情があることを隠せなくなった僕は、パソコン教室に通うことになった。四六時中、ホームページと睨めっこしていた僕はタイピングと検索能力に秀でていた。  

通うなり講師の方から、資格試験ととある仕事を持ちかけられた。そこで民間資格を取得し、ホームページ作成を依頼された。そんなこんなで当時、生徒としてそこに通ったMさんと出会い、ときどきお茶に誘われるようになった。誤解なきよう、Mさんは初老の男性である。そこでMさんに冒頭の疑問を投げかけられたのである。  

これが仕事だ  

思う。人生はわからないものだ。  

ニートにならなければ、Mさんにも出会わなかっただろう。そして「頑張らないで」と言われた世の中の環境になんの疑問も感じず、のうのうと暮らしていたに違いない。 事実、僕は病気になって頑張って、また失敗してを繰り返していたから、それがベストの答えでしかないように錯覚していた。仕事は資格をとって、嫌な役割をこなして、苦々しい体験を繰り返し、なけなしのお金をいただくこと。その負担に、ストレスに弱い僕が耐えられるわけがない。今思うと、確かにそれは事実かもしれないが、それは一面であって、すべてではないことを当時の僕は分からなかったのである。  

Mさんの挑発に、僕はほだされた。 

当時、60歳を超えた彼から誘われたのは、町おこしだった。彼の故郷で開かれるお祭りや行事、イベント、郷土史をすべて、ホームページにまとめて公開する。そのスタッフを彼は探していたのだ。  

その街の郷土史の研修会などに参加してワークショップで学んだし、夏の暑い最中、祇園祭の撮影をしながら地元の人に振る舞われる梅干しとスイカを頬張ったこともあった。Mさんとお揃いのTシャツを着て地元のN街道を練り歩き、リアルタイムでHPを更新したりもした。  

「これが仕事だよ」とMさんが笑った。楽しい、と正直思った。その町おこしのページはやがて、検索エンジン第一位に掲載されるようになる。  

居場所の意味  

やがて、仕事のための就職活動や、障害を持っていても主体的に生きるための当事者会活動も頑張るようになった。自分の事は自分でやりたい、と思った。  

障害者就労支援センターでパソコンスキルを活かす事業所に通所、同時に街で開かれていた当事者会に入会した。1年後、会長職に推薦される。僕は汚れ仕事を引き受けた。地元の社会福祉協議会と自治体が協力して行っていた学習会の実行委員に参加し、その勉強会を経てボランティアグループ「ピアサポートみなと」を結成した。その最初の代表にも選ばれた。しかし、人生うまくいくことばかりではない。  

ピアサポートみなと設立4ヶ月後。僕はオーバーワークがたたって、20年ぶりに精神科に入院した。潜んでいた黒い悪魔が、再び体を蝕んでいた。病棟の中は異常な空間だった。暴力と妬みが横行する患者関係に、それを支配的に管理する職員。当然である。それが精神科病院なのだから。  

また、医療に見捨てられるかもしれない。その不安を抱えながら、僕は両親に頼み込んで病院から逃げた。もはや、行き場などないというのに。  

そんな僕に誘いがあった。僕が代表を務めていた「ピアサポートみなと」だった。そこには笑顔が待っていた。あの顔、この顔。どれも馴染みの顔ばかりだ。僕が入院した事は 誰もが知っているはずなのに、腫れ物に触る人は誰もいない。異性の前でおしっこの回数を聞か れる事もないし、薬を強制してくる人も、突然意味不明のことを言って喧嘩をうってくる人もここ にはいない。すべての参加者が対等であり、体験談を語り合う事で助け合う。支援やケア中心の 病院とは別次元の世界。今まで心を砕いて守り通してきた「ぼくら自身の居場所」だった。僕の体調はぐんぐんと回復に向かっていき、1ヶ月後には無事、仕事に戻ることができた。「当事者会活動」を続けることの意味を再度、身をもって確かめた瞬間だった。  

その激動の数年。僕は3人の女性と婚約している。僕は今でも彼女たちを尊敬している。さまざまな事情があったとはいえ、そう思える人にしか、プロポーズできるものではない。しかし、いずれも僕が原因で破局した。彼女たちからのSOSに駆けつけることができなかった。彼女の親は激怒した。それで、縁が切れた。  

例外が今の妻だ。 

真伨で強い。怪我を見舞っていたら、病院の休憩所で求婚された。当時、結婚は諦めつつあったが、勇気を出して僕は受け入れた。再度、困難は訪れたが、二人で命懸けで乗り越えた。 絶対、叶えるんだとの思いがあった。  

そして、2014年。僕らは結婚した。  

仲間達がひらいてくれた結婚お祝い会で、僕たちは祝福された。結婚写真に写った僕は珍しくにやけている。今でも、この写真を見るたびに、おバカだなあ、と自分が可愛く思わずにはいられ ない。  

夢の木に実った果実  

設立6年で、共同代表制を挟む形で、僕はみなとの代表を降りた。かなりの不安があったが、 次の世代を育てることも重要だった。  

しかし、大変だったのはその後だ。  

共同代表のひとりが急遽退会、ひとりが発病。やはり、責任が重かったか。僕がまだ続けてい た方がマシだった。  

なんとか、その場を切り抜けて、今、単独代表に任せ、みなとは運営されている。  マネージャーから1プレイヤーに降りて感じたことは、チームの分だけ結束の形はある、ということだ。僕が代表を務めていた時代は僕のスタイルで良かったが、今の代表には今のスタイル がある。結婚お祝い会が開かれたとき「情けない代表でいてください」と祝辞を送ってくれたみ んながいる。その形は、僕の代でしっかり育ち、今の代表で実現した。弱さは絆を作る。情けな さはこのチームをまとめるのに必要な要素のひとつだった。  

さて、そんなみなとの活動でひとつだけ書いておかねばいけない話がある。忘れもしない。「夢の木の研修会」である。  

みなとでは年に一回の勉強会を開催していた。その研修会で「T先生の夢を教えてください」とか「ワークショップにしてください」とか、その時のT先生にかなりの無茶振りをお願いした。  

勉強会当日。T先生は幹だけ書いた模造紙をみんなの前に貼った。そして、参加者に折り紙が配られる。その折り紙に夢を描いて、幹にみんなで貼り付けた。たちまち、幹にたくさんの花が咲 いた。夢の花が咲いた。  

そして、T先生がみんなに、これからの夢を提案する。リカバリーカレッジの構想だった。それを一時的には僕は「T先生の夢」と解釈していたが、振り返ると「みなとの夢」だったのではないかと思う。「精神医療」を治療の面からアプローチするのではなく、「教育」の視点から解決するいわゆるリカバリーカレッジ。一般の人も参加でき、イギリスで始まったと言われる活動である、リカバリーカレッジをみなとでやろう、という提案だ。それは「障害者の生涯学習活動」という形で、長崎大学で実現した。進行役を務めたのは、みなとの運営委員のメンバーだった。この実行に反対がなかったわけではない。みんなの体力を奪って、みなとの会を続けて行く力がなくなるのではないか。という意見もあった。実際、それで何人かの会員が退会したのは事実である。一方で、少数精鋭のかけがえのないチームができた。このチームの結束は今のみなとの財産として、長崎のリカバリーカレッジが停止した後も続いている。 

そして、今、立ち上がる  

コロナを経て、オンラインの経験と知識を得た僕は、新しいチャレンジに取り組もうとしている。  

傍には頼りになる妻がいる。  

自分の思いを絵本で書いた。  

守り通したこのピアサポート活動を、希望のストーリーとして、多くの人に届けたい。   

主人公に言わせたこのセリフは、僕の本音であり、これからやりたい僕の生き方だ。   

慣れないSNSに苦労しながら、ニート経験で得た知識や、挫折によって得られたピアサポートの信念を多くの人に届けたい。  

「精神障害者は、仕事はできないのかね?」  

もし、Mさんに再度問われたら、今の僕はこう答えるだろう。  

だからこそ、誰もが一緒に仕事できる文化を、みんなの元に届けたいんです」と。