私は両親に愛され、妹と弟がいる長男として一緒に過ごしてきました。両親の愛情は深く、長男ということもあり、わたしの1歳の誕生日に自分たちの挙げた結婚式よりも盛大に行ったという話でした。
小学生になり、走ることと縄跳びにチャレンジしていました。毎日のように、10km以上の道のりを道路や運動場を走っていました。卒業式で言った一言も「九州一周早朝マラソン」だったと記憶しています。九州の地図に走った距離を記録していき、私は、6年生の1年間で、実に九州を2周していました。縄跳びにおいても、縄跳びの大会で、優秀な成績を収め、縄跳びマスターという称号までいただきました。勉強もできる方で、偉人の伝記などを読み漁りました。しかし、その中で、疑問も出てきました。人間って、学生のころはひたすら勉強し、就職すると仕事を必死に頑張り、結婚すると家庭を守るためにさらに頑張って、老いて死んでゆく。それが、「ふつう」の人たちって考えた時、思ったんです。「人間って、なぜ生きているんだろう?何のために生きていくのだろう」と。
人は、生きるために、生き物を食しないと生きられません。まぁ、人だけではありませんが。これから、幾万幾億もの生き物を殺して、食するのに、自分は値するのだろうか?と考え、小学生のころに吊るしてあったロープに首をもたげたことがありました。幸いに、縄はすぐにほどけ、事なきを得ましたが、命の重みを考えさせられました。
その後、中学生になり、無口で、優等生的な私は、いじめの対象となります。小学生のころ、走ることが好きだったので、陸上部に入りましたが、そこでもいじめに合い、そのこともうやむやにされながら、毎日いやな学校に通ってた時代でした。ここで、2度目の自殺をしようとしますが、友達に救われ、助けてもらいました。
そして、第一志望の高校に受かり、第一印象が大切だと思った私は、一番最初の自己紹介の時に、ユーモラスに話しました。そうすると、友達ができ、いじめられることもなく、生徒会の推薦をクラスの中で受け、そのまま、投票で、生徒会長になることになりました。挨拶を重んじ、他の生徒が登校する前に学校へ来て、「おはようございます」の挨拶運動をしていました。私の行っていた高校では、運動会や文化祭が2日にわたり、行われていたのですが、その企画・運営などもすることができ、裏方の大変さも少しわかりました。
大学進学もすんなりでき、片道2時間半の道のりを通学していました。普段は、途中下車して、家庭教師のアルバイトをして、サークルを2つ掛け持ちし、部長と副部長を兼任していました。さらに、ゼミに入り、税制改革の討論をするべく、東京の大学で他の大学の方と議論をしてきたり、卒論でコメ問題に焦点を置いて、書いたりもしました。税理士志望だったのですが、どうしても税法が頭に入らず、断念して、その後、就職活動をします。
地場の大手電器店に就職したのですが、長時間の労働と、体力を使う職場だったので、身体が持たず、3年くらいしか続かず、退職してしまいます。その後、職を転々とし、自営業をしていた父から声がかかり、お手伝いすることになりました。肉体労働の仕事は、私には明らかに向いてはいませんでしたが、自分なりには頑張っていました。そんなある日、社長より、船をロープでつないでおけ、という指示が出ました。結び方が分からず考えていたところ、「繋げたらいいから」とせかす声が聞こえてきました。ロープを結んで、その場を離れた直後、ロープがほどけ、船が離れようとしていました。それを見た社長から「お前は馬鹿か」という言葉を浴びせられました。その言葉が、頭の中を何度もよぎり、リフレインするようになります。そのうち、私は馬鹿なのか、だから何をやってもうまくいかないのか、と思うようになりました。
そんな中、自分の人生が落下していくようなことが起こりました。自分が死んだり、人を殺したりする幻覚を見ることが出てくるようになってきたのです。そのリアルな幻覚が、何度も何度も頭の中を湧き廻り、常にそういうイメージが出るようになります。
そんなある日、西鉄バスジャック事件という凄惨な事件が起きます。皆様もご記憶にあるかと思いますが、精神疾患をもった青年がバスジャックをし、次々に包丁で人を刺していくという事件でした。この事件を私は、他のひととは違う視点で見ていました。このままでは、私もこの人と同じように人殺しをしてしまう。そうなる前に、死ぬべきか、どうするか、本当に悩みました。その結果、自分では、行きたくなかった精神科の病院を「生きる」ために一人で行きました。
しかし、当時の精神科の病院は、凄く粗悪なものでした。見学した病棟では、バケツの周りに人が群がり、それを灰皿代わりに煙草をみんなで吸っていて、煙がすごい充満していました。タバコが大の苦手で、その病院で入院することが嫌になった私は、別の病院を紹介していただきました。
その病院へは、友人の車で向かいました。ひっそりとした山の中の病院でしたが、保護室という、刑務所みたいな部屋に入れられ、カメラの監視付きでした。さらに、ベルトと靴ひもを取り上げられ、寝ることもままならない空間でした。
人生が終わった、と思った瞬間でした。
その後、入院生活は、半年ほど続いたのですが、薬の副作用であごがまともに動かず、食事もなかなかとることができず、イライラすると、お尻に注射を打ってもらう毎日でした。
しかしながら、そんな生活にも楽しみがあり、部屋から一時的に出られるようになると、いつもの方とお話したり、卓球したりしていました。それから、おやつの時間に売店に連れて行ってくれる時間があり、そこで買って食べるアイスクリームがとてもおいしかったです。
その入院生活にも終わりをつげ、実家に戻りますが、寝て起きてご飯を食べる、の繰り返しで、お父さんに「頑張れ!」と励ましの言葉をもらいますが、その時は、生きているだけで精一杯でした。
それからしばらくして、人生の転機を迎えます。高校の同級生が、精神当事者のチャットグループを作ったから、来てみないか?というお誘いを受けて、行ってみることにしました。同じ境遇を持つ方の様々な想いであふれ、心地よい場だったのですが、夜の活動だったため、昼夜逆転の生活を一時期続けました。
そんなある日、オフ会をしようという話が出て、東京で行われるそのオフ会に行ってみることにしました。自傷行為や自殺未遂を経験した方々が多くいて、私の取った宿までかけつけてくれて、夜遅くまでいろんな話をしました。それが心地よく、その後もチャットをすることを続けていました。
そんな中、通院していた病院で、デイケアが新しく創設されると聞き、担当医から来てみないか、ということを打診されました。心地よくとはいきませんでしたが、しぶしぶOKしました。
デイケアに行って、最初のころは寝ていました。その後、このままではいけないと思い、活動に参加するようになっていきます。麻雀や花札や卓球、バレーボールというものまでできるようになっていきます。
ここで、さらに人生がいい方向に向かうであると感じることができるような出会いがありました。そこで知り合った方とお付き合いすることになったのです。その後、障がい者枠の求人で仕事をするようになり、県営住宅に入れるようになりました。それを機にその方と結婚しますが、彼女も精神的病と、ギャンブル依存の症状があり、1年余りで離婚してしまいます。
離婚した私に残ったのは、多額の借金と死にたいという気持ちでした。実家に戻り生活していましたが、年金を生活費としてあてがっていたため、1日使える金額は500円というみじめな生活を続けました。
そんなことを続けていると、担当医から、実家を離れたほうがいいと言われ、その時には職も失っていました。担当の精神保健福祉士(PSW)から、グループホームという居住スタイルを勧めていただき、現在でもそこで生活しています。
実家にいる時に、ピアサポートというものがあると、調べて行ってみました。そこには、同じ境遇の仲間が確かにいました。でも、自分より、輝いて見えました。その地元のピアサポートは毎月今でも行っています。そんな仲間に自分が発表するから、ちょっと来てみない?と誘われて、他の友達の車に乗せていただき、行ってみました。すると、リカバリーカレッジというものの紹介があり、興味がわいた私は、受講してみることにしました。WRAP(元気行動回復プラン)のことに触れられていて、自分の行動やもしもの時の対処法などについて学んでいくようになります。
そのあと、人生はひょんなことから変わっていくもので、いい方向に向かっていきます。リカバリーカレッジふくおかのカレッジラボという勉強会がオンラインであると聞いて、数回行ったのち、どうせするなら面白いほうを選ぼうと思い、運営として迎えていただくことになりました。 その後、リカバリーカレッジSAGAにも運営として参加するようになり、まだまだ未熟ですが、メンタルヘルスを学ぶことと自分の経験も無駄じゃなかったという思いになりました。
ここで、人生最大級の転機を迎えます。いろんなことに挑戦したくなり、入院時に書きなぐった文章を以前、出版社に持ち込んだのですが、本にしませんか、とは言われましたが、結構な額を要求されそうになったので、断念してたことを思い出します。そこで、自分で文章や校正をして、製本だけしてもらえば、安くできるのではないか、と思います。ちょうどそのタイミングで、国からの給付金が出ました。これをチャンスととらえ、作ってみました。「あなたには生きていてほしい」そのタイトルは、チャットグループにいたころから決めていたネーミングでした。その本を出したいと当時チャットに書き込むと、私こそあなた(著者)に生きていてほしいと、打ち返してきてくれました。他にもピアサポートの仲間の紹介していただいたイベントで、プロのナレーターの方が自分の文章を読んでくれるものがあったのですが、その時に泣いて共感してくれた方がいて、自分の想いが届くことがあるんだ、と強く思い、自費出版にて「あなたには生きてほしい」が誕生しました。
その後、リカバリーカレッジふくおかでクラウドファンディングすることになり、他のクラファンを見てみると、ちょうど自殺予防の件で、クラファンをしてある方がいました。それが現在、株式会社パパゲーノの田中さんなのですが、彼のフェイスブックグループに入れてもらい、また道が開かれたと思っています。そこで、自分のことを発表させていただいたり、他の方とつながったり、面白いように展開していきます。
そして、「あなたには生きていてほしい」の表紙絵と挿絵を描いてくださった、片岡洋子さんと、絵本を作ってみませんか?というお誘いが田中さんから持ってきてくれました。
わたしは、二つ返事でOKし、資金集めのためのクラウドファンディングは見事成功して、原作「あなたには生きていてほしい」の2次制作作品として、絵本「飛べない鳥のかけるん」は生まれました。この絵本は、パパゲーノさんとしても第1作にあたる記念のもので、そのお陰で、いろんな方に宣伝していただき、先日は神奈川テレビさんや神奈川県知事の黒岩さん、NHKさんにもご紹介いただきました。さらに、電子書籍化までしていただきました。すごく、広がっていって、自分でもびっくりな展開です。片岡さん夫妻と株式会社パパゲーノの皆さんには、足を向けて寝れません。
ところで、生前、おばあちゃんが言っていた言葉があります。「生きてるだけで儲けもの」というものです。さんまさんの「生きてるだけで丸儲け」と似てますが、生きているだけで価値があるんだよ、とそっと心を押してくれたんだと思います。この言葉は、おばあちゃんがなくなった今でも、私の中に留まってくれてます。
わたしには、精神疾患の経験をしたものとして、考えがあります。例えば、病気をしてしまうと、主治医に対して、いいなりの奴隷のようにその言葉を丸のみにして聞いてしまう事があったり、外に出ようとしても、障害を持っているというジレンマで他の方に対して、臆病になりがちです。私自身、外に出ようとしても、他の方から、自分自身を指さされ、障がい者だと冷たい視線で見られるような気がして、なかなか外出できない頃もありました。しかし、友達に「あなたは今も昔もあなたなんだよ。変わりやしないよ。」と言われ、昔と同様に接してもらえたことで、障害を持った自分を認めてあげることができるようになり、それをきっかけに、他の方の目を気にしないで、堂々と生きて行こうと思えるようになりました。だからこそ、障害を持っていようがいまいが、自由な意見を言うことができ、仕事やレジャーを自由に楽しめるような世の中であってほしいと願っています。障がい者になりたくてなった人はいないと思います。もし、あなたが突然障がい者になったら、家族が障がい者になったら、大切な友達がそうなったら、あなたはどうしますか?その時、初めて、障がい者にもっと向き合えばよかったと思うかもしれません。今、もっと障がい者に関心を持ってくれるような人が一人でも多くなり、そのスティグマ(偏見)が少なくなるようになることが、私の願いです。そして、そのために私だけでなく、多くの方が今日も頑張っていることを忘れてはいけないと思うのです。
さらに、医療者が精神疾患をもつ方に、支援するだけでなく、共に生きる世の中になってほしいのです。もっと言えば、当事者同士であったも、共に協力し合えるそんな社会になっていけばいいな、と切に思うものです。