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好きで嫌いだったことから学んだ、自分らしさの見つけ方

これは、約10年間打ち込み、大好きだったバスケットボールで経験した大きな挫折から、色々なことを学び生き方が変わったリカバリーストーリーです。

男3人兄弟の末っ子として生まれた私は、思えばいつでも兄の真似事をし、本当にやりたいかはわからないけど、「兄がやっていてなんとなく楽しそうだから」という理由で習い事や塾に通うことを決めるような子でした。

上の兄2人は小学校の頃、ずっとサッカーをやっており、私も例に漏れずサッカーを小学校1年生から始めました。最初のうちは楽しかったし、自分の同級生もどんどん入ってきて友達もたくさんできました。

でも、小学校3年生になり、周りがどんどん上達していく中で、自分はなかなか上達できずにいて、少しずつサッカーに対する愛情が冷めているのを感じていました。

そんなあるサッカーの練習の日に、たまたま体育館でバスケットボールをやっているのを見て、一目みて「あ、バスケやってみたい」と思いました。それがバスケットボールとの出会いでした。

しかし、兄2人は小学校6年間をちゃんとやり通していたこともあり、あまり自分の中に途中で投げ出すという選択肢はなく、周りから続けることを強要されてるわけでもないのに関わらず、「このまま続けないといけないんじゃないか」という気持ちに駆られ、なかなか両親やサッカーのコーチに言い出すことができませんでした。

辞めることを監督に伝える最後の練習になってさえも、親に「やっぱり言えない」と泣きつくほどでした。

それでも、親に背中を押してもらって、勇気を振り絞って伝えることができ、バスケットボールを始めることができました。

生まれて初めて「自分からやりたい」と思えたことで、その気持ちは色褪せることなく今でもバスケは大好きです。

そんなこんなでバスケを始め、途中受験などで一時お休みすることもありましたが、小中高とずっとバスケをやり、中高では部長を務めました。

私の部活は、一つ上の先輩たちが次の代の部長を決めるという決まりになっており、私は高校1年生の時から先輩たちと一緒に試合に出ていたことや、中学の時も部長をしていたこともあり、高校でも部長を務めることになりました。

自分はたまたま小学校からバスケをしていたこともあり、周りに小学校からバスケをしている人がほとんどいなかったため、自分に課される役割は大きなものでした。思えば、バスケを楽しむこと以上にその役割を全うすることに必死になっていたように思います。

試合に負けて泣いたことも、監督に怒られて泣いたこともありましたが、どれも自分にとっては大事な時間で、最後の5月にある引退試合までやりきって華々しくバスケ人生を終わろう、と思っていました。

そんな矢先の、引退まで残り1ヶ月の高校3年生の4月4日にある事が起こりました。

その日は、1週間後に公式戦が控えていて、最後の練習試合でした。その練習試合中に、私は利き腕だった右腕を派手に骨折し、最後の引退試合までやり切るという目標を叶えることはできませんでした。

あの時の感情は今でも簡単に整理できないほどぐちゃぐちゃで、「なんで自分なんだろう?」とか「部員や監督への申し訳なさ」などを感じながらも、少し「解放されたなぁ」という真逆な感情も抱きながら、病院のベッドの上で過ごしていたのを覚えています。

退院してからも、もともとプレーでチームを引っ張る部長で、誰もが想像する「キャプテン像」とは程遠く、プレーできない自分自身の存在意義ってなんだろう?とか、チームや勝敗に対する当事者意識をなかなか持てず、そんな自分に嫌気がさしたり、ぐるぐる色んなことを考えながら部活に顔を出していました。

1週間後にあった試合には当然のように負けてしまい、私は部員に何か声をかけることもできず、そそくさと家に帰ってしまいました。

家に帰ってきて、自分のベッドで泣いたのを今でも覚えています。

もちろん自分では「このまま家に帰ってきていいわけない」とは思っていましたが、自分のぐるぐるした感情を部員の前で見せることに勇気を持てず、家に帰ってしまいました。

思えば当時の自分は、「課されている役割や責任から自分の存在意義を見出してしまう」部分がかなりあり、自分の弱みを見せること=自分が役割を1人では果たせないこと、であると捉えていました。

何も感じていないふりをしていれば、弱っていることを周りから悟られることもないし、自分の中だけで解決すればいい問題だと思い、よく自分の部屋や1人の時間に泣いて、心を落ち着かせたりしていました。

そんな自分だったから、ぐるぐるした感情を部員の前で話して泣いてしまうことを恐れたし、逃げたんだと思います。

そんなナヨナヨしている自分の背中を押してくれたのは、母親でした。

逃げ帰ってしまった自分に向けて「本当にそれでいいのか」という問いを投げかけてくれ、会場に戻る背中を押してくれました。

結局会場に戻り、部員の前で泣きながら今自分が感じている感情や、それでもみんなに頑張って欲しいこと、1人1人に対して想いを伝えることができ、部長としてではなく、初めて1人の人として接することができたなと思いました。

それ以降の自分は、今まで自分が勝手に思い込んでいた存在意義から解放されて、チーム全体を見た上で自分がするべきことを主体的に考え、腕が折れている部長ながら、やれることを考えました。

また、最後に自分がコートに立てることも諦めず、お医者さんには少し止められながらも必死にリハビリをして、最後3分くらいでしたがコートに立つこともできました。あの時にもらった声援は今でも鮮明に覚えていて、自信をもらいました。

私はこの挫折から、「自分の存在意義は、役割や肩書き、周囲からの期待から創るものではなく、自分が好きでやりたいと思ったことに、主体的に取り組んだ結果として生まれるものである」ということを学びました。

今の社会は、自分の意志や信条から道を決めることが難しい世の中なんじゃないかなと思っています。

人の感情や意志は千差万別で、人それぞれあるものです。いわゆる「王道ルート」や「普通」といった概念から外れる人はたくさんいるし、そもそもそういう概念があることが間違っているのかもしれません。

私は、好きだったバスケを楽しむという一番大事な感情も忘れ、周りからの期待や役割に縛られ、そこから自分の存在意義を見出していました。

標準化された社会の中で、自分の意志や信条から道を決めると、異端だと思われたり、批判を喰らったりするし、それによって自分を追い込んでしまうことも多いのではないかと思います。

でも、その枷から自分を解放して、自分が好きだと胸張って言えることに向き合い、生きたい道を自分の意志で選べるような世の中になれば、もっと多くの人が生きててよかったと思えるのではないかと思っています。