20代になってすぐに、私は時々無気力になるというメンタル不調を抱えるようになりました。
時々、クリニックを受診してはいたもののあまり効果がなく、
体調が良くなってきたら働くけれど、長続きしないことに悩まされていました。
すでに妻と交際しており、心の支えになってくれる人がいるという安心感は常にあったので、妻のためにも何とか働いて結婚しようとアパレル販売店に就職しました。
ところが、なぜか就職して半年くらいすると、急激にやる気というか気力そのものが失われていくような感覚が続きました。
仕事が合わないのかもしれないと思い、別の会社に移ってみたのですが、やはり半年くらいすると気力が失われていき再びメンタルクリニックを受診してみたものの、薬が増えるばかりで解決することはなく、単純に私が社会不適合者なのかもしれないと悩んでいました。
また身体面でも原因不明の痛みが続いていて心身ともにかなり苦しい状態が続いていました。
その時に、たまたま新聞の医療記事に取り上げられていた線維筋痛症の症状がよく似ていたため漢方内科を受診して、メンタル面の治療をしてもらうことになりました。
そして25歳の時に私は最初の躁転を起こして突然、小説家になると家族に宣言して1年間ひたすら小説を書きつつ浮かんだことを片っ端からブログに書き残す日々を送り、自分が天才になったと思い込んでいました。
そのことを主治医に話すと「珍しいことではないしまぁやってみたら」と言われたこともあり、
宣言通り1年後に書き上げた小説を新人賞に応募することができました。
もちろん素人の思い付き小説なので箸にも棒にも掛かることなく見事に撃沈。
ここで少し落ち込んだことで高揚感がなくなり軽躁が落ち着くという不思議な経験をしつつ、
とりあえず現実との折り合いをつけるために、バイトをしながら書き続けていく生活にシフトしました。
いきなりフルタイムで働くのは不安だったので、CDショップでバイトをしながら空いた時間で執筆とブログ更新を続けていく日々を送りました。
CDショップには自分も含めて一癖二癖ある人ばかりだったので「自分ってわりとまともなんだな」と妙な安心感を得ることができました。
また、好きなアーティストの新譜が出ると手書きポップを作ることができたりサンプルCDをもらうことができたりと、音楽好きにとっては嬉しいことも多い職場でもあり、メンタル面の安定につながったような気がします。
ただ煩雑なレジ業務に対して先輩からの指導がものすごく雑だったので、最終的に馬鹿らしくなってきて半年ほどで辞めてしまいました。
このころの状態は軽躁までいかないけれどちょっと上向きくらいだったこともあり、次の仕事は物を書く勉強ができるようなものがいいなと考えていたところ、手書きポップで有名な書店にたどり着きました。
そしてここで2度目の躁転を経験します。
あらゆる商品に対して、自由にポップを書いたりレイアウトを変えることができるので楽しい反面、労働時間がほぼ15時間という環境だったので、睡眠時間が激減したことも影響したと思います。
もともと不眠が強かったのでフルニトラゼパムを使っていたのですが、睡眠時間は4時間くらいしかなく、当たり前ですが朝はかなり起きるのがしんどかったですし、そもそも薬が抜けきっていないのでフラフラしながら出勤して倉庫を整理していたら寝落ちしていたこともありました。
こんな生活が半年も続いたことで突然、私は気力が一切なくなってしまいました。
今までのうつ状態と大きく異なったのは憂鬱さも感じないくらい気力がなくなっていて趣味のゲームやギターも手付かずになっていました。
この状況を見てついに両親のストレスが限界に達してしまい、物理的に距離を置かないとお互いがもたないという結論になり私は生活費の面倒を見てもらいながら単身生活を始めることになりました。
いずれは妻と暮らすことも考えると少し気分が上がってくるものの家事全般を全くやったことがないので不安のほうが強く、いざ生活が始まると、丸1日ひとりなので誰とも口をきかない日々に耐え切れず、早々に妻に頼んで一緒に暮らしてもらうことにしました。
とはいえ妻は働いており、日中は相変わらずひとりなので根本的な解決にはならず、ストレスがかかり続けた結果、大きく躁転しました。
躁状態の主な症状の一つに散財というのがあるのですが、私はこの症状が強かったのか、歩いて5分のところにあるという環境のせいなのか、パチンコ三昧になってしまったのです。
一般的な感覚だと働かずギャンブルに明け暮れるというのは人としてはかなりヤバい部類に入ると思うのですが、幸か不幸か才能があったらしく働いていた時よりも収入が増えて経済的に困ることはありませんでした。
躁転していると尊大になるので汗水たらして働こうがギャンブルで稼ごうが金額が同じなら文句を言われる筋合いはないし、勤労は美徳みたいな綺麗ごとを並べるのはただの負け惜しみだと本気で思っていたので我ながらクズ男だったなと思います。
この時期に身につけたことで唯一、役に立っているのは料理の習慣くらいです。
さらに躁状態が続くことで頭の中には次々とアイデアのようなものが湧いてくるため、人類史上に残る天才になってしまったと盛大な勘違いも起こしていて妻も含めて周りの人すべてを見下していました。
また常にイライラするようになっていて妻にアイデアや考えを話している最中に遮られると「バカは黙ってろ」くらいのいら立ちをぶつけることもありました。
「誰よりも自分は偉い。なぜなら人類史に名を刻む天才だから」
こんな状態がほぼ2年間続きました。
おそらく周りから見たら好き勝手にやっていてさぞ楽しかったように見えるかもしれませんが、
実をいうと私自身は制御不能になっている自分に対して恐怖を抱いていました。
パチンコ三昧なのも楽して稼げるからではなく、お金を使うことが快感だからやっていたら生計が成り立ったという結果論ですし、ささいなことでキレてしまうたびに、自分が壊れているとどこかで感じていました。
が、自分では止められない。
躁状態はとっても気持ちがいいからです。
主治医にはこの状態を伝えていましたが合理的というか平たく言うと「さして困っていない」ので
ある程度は抑える薬を出してくれていましたが強い薬で抑え込む、鎮静化させるということはしていませんでした。
今だったら正直に壊れていく自分に対する不安などは伝えられるのですが、いかんせん天才になっているので、他人に弱みを見せたくないというプライドが邪魔をしていました。
この2年はまるで止まらないジェットコースターに乗り続けているような感じでした。
高揚感や解放感はあるけれど、不安や恐怖もあって本当は降りたい。
けれど止められないから誰か止めてほしい。
でも怖いから止めてくださいなんてカッコ悪いことは言えない。
顔では楽しんでいるけれど心の中では悲鳴を上げている。
そんな堂々巡りの日々でした。
実際はじわじわと消耗している自覚はありつつ、認めると全てを失うような気がしてしまい目を背けていたのですが、2つの出来事がきっかけとなり私は一気に消耗すると同時に自分を見つめ直すことができました。
ひとつは現在の主治医に出会ったことです。
もうひとつは東日本大震災でした。
私の主治医はまず処方されている薬の整理から始めて信頼関係を築くことを大切にしてくれたので、今まで言えなかった本当の気持ちを伝えることができるようになり、真剣に治療しようと思えるようになりました。
躁転しなければ落ちることもないので「躁転しない!」を意識して生活する日々が始まりました。
そして、真面目に生きてきた被災地の方をテレビで見るたびに、好き勝手にやっている自分のような人間が生きている理由を見つけないと、本当にクズで終わってしまうと気づいたことも大きかったように思います。
3か月ほど過ぎた頃にはほぼフラットな状態まで寛解して就労を考えるようになり、主治医と話し合いながら今まで選んできた労働時間が不安定な販売接客業から離れて、働き方そのものを見直して遊具施設で子どもと接する仕事を選びました。
遅くても18時までには退勤できるので帰りに夕食の買い物をして調理をしながら妻の帰りを待つ生活を送ることができ、経済的にも安定したのでお互いに笑顔が増えていきました。
この2011年というのは妻と交際してちょうど10年だったので、親の勧めもありようやく入籍して挙式することができました。
正直、この先また躁転したりひどいうつが出たらどうしようという不安はあったのですが、
それを気にしていたら永久に入籍できなかったような気がします。
ただ残念ながらこの不安は的中してしまいました。
現場のリーダーがあまり頼りにならなかったせいで、現場の不満が私に届くようになり上司からも私に指示が来るという板挟みの日々が続くようになりました。
さらに職場で意気投合した友人が自死してしまい、心が限界に達したことで年明け早々にうつがどうにもならないくらい酷くなり退職せざるを得なくなりました。
入籍して半年もたたないうちに失業して再起不能状態になってしまったことで、躁転していた日々の後悔や妻に対する申し訳なさで死にたいというよりも霧のように消滅したいと思いながら、部屋でぼんやりしたまま日が暮れていくような日々が始まりました。
友人が自死したことで遺された側の悲しみを知ったので、生きることだけは諦めませんでしたがそれはそれで辛いものがありました。
窓を見ていると、物干しにロープがぶら下がっている鮮明なイメージが浮かんできては打ち消してということを繰り返していた記憶があります。
何よりも深刻だったのは、経済面で私の収入がゼロになってしまったため、生活が成り立たなくなり始めていたことです。
自立支援医療受給者証の更新で区役所を訪れた際に、相談して案内された生活支援課の窓口では開口一番、家賃を聞かれたのですが上限を超えていたため相談どころか椅子に座る前に門前払い。
おそらく現在であれば生活困窮者自立支援制度が使えたのですが、当時はまだ制度自体がなかったため私と妻は途方に暮れました。
そのことを主治医に相談したところ障害年金の受給を勧められ、書類の記入からカルテ喪失証明を取りに行くのを自力でやるのは大変でしたが、無事に2級の申請が通りほんの少しですが安心することができました。
同時に私は今度こそ精神障害者として生き方そのものを見直さないと、いつまで経っても同じことを繰り返してしまうと思い、たまたま目に入った就労移行支援を使うことにしました。
自分で事業所を探し見学の申し込みや区役所での手続きをするのは大変で、通所が決まったときには疲れ果ててしまい予定より2か月ほど遅れて週2日の通所を開始しました。
ここで初めて対人支援を受けた私は、無償の優しさに感銘を受けてどうせなら同じ福祉で働きたいと思いました。
ところが、高卒の私がこの世界に飛び込もうとすると、福祉系大学を卒業しないと話にならないという厳しい現実を突き付けられました。
そんな私に職員が就労できる保証はできないという前提で「ピア」のことを教えてくれました。
自分自身が経験してきたことをもとに同じ精神障害の支援をするピアサポート、さらに支援施設で働く「ピアスタッフ」という概念があるものの現状はほぼ不可能に近いという話だったのですが、私からすれば障害者雇用で働きながら大学に通う方が非現実的だったのと「ほぼ不可能」という言葉に生来の負けず嫌いが発動して「ピアスタッフ以外やりません」と宣言しました。
職員からは面談のたびに他の道も探すように促されたり、ほぼ不可能と言われ続けましたが性格上、一回ぶれてしまうと他の道に逃げ込みそうだったので、頑なにピアスタッフ以外はダメだったときに考えることにして自分の信念を押し通しました。
明確な目標ができたことで、日々の訓練も真剣に取り組むようになり、休憩時間も喫煙所で雑談したことがきっかけで少しずつ仲間のような存在も増えていき、訓練が終わってからもロビーで日が暮れるまで雑談をしたりと、学生時代を思い出すような楽しい日々になっていました。
そして私の熱意に応える形で同法人が運営している精神障害者支援施設で1か月間の実習を行い、支援の現場で学ぶ機会を用意してもらうことができたので、ここが正念場と頑張ったことでそのまま雇用につながりました。
当初は事務補助という形を取り支援の現場で何をしているのかということを学びつつ、
障害者として働き続けるために就労支援センターを利用しながら試行錯誤していました。
ただ職場では素人にできる仕事があまりなく、午前中に掃除などの雑用を済ませると、午後は座っているだけという日々が続いていました。
はじめのうちはDSM-5を読んでみたりICD-10に目を通したりしていたのですが、
いかんせん周りの職員は電話相談や訪問など慌ただしくしているので、自分が浮いているような感覚になってきました。
週20時間勤務のため誰よりも遅く来て誰よりも早く帰るということもあり気づけば頭の中に「窓際族」という言葉が浮かぶようになり、モチベーションが全く上がらなくなってしまい休みがちになりました。
2年半ほど勤務していましたが冬季うつの影響もありトータルで半年以上は休んでいたと思います。
何度も話し合い、私は仕事がないからモチベーションが上がらないことを伝えると、上長からは休んでしまうので仕事を任せられないという平行線がずっと続いていました。
描いていた理想と現実があまりにもかけ離れていて、何とか自分を奮い立たせてはいたものの
最終的には体重が10キロも落ちてしまい心身ともにボロボロになってしまい私の夢は潰えました。
とはいえ負けず嫌いなので1か月ほどゆっくりしてからもう一度ピアスタッフを希望して就職活動を始めました。
そこでようやく私は就労移行でさんざん言われていた「働き口がない」という現実を突き付けられることになり、全く就職先が見つからないまま1年以上が過ぎていきました。
そんな状況でしたが無為に過ごしていたわけではなく、横浜ピアスタッフ協会の一員として様々なイベントや勉強会に参加したりピアサポートの世界では少数派の双極性障害について啓発を行い、たくさんの人たちと出会っていました。
私がピアスタッフにこだわることができたのはやりたくないことは続かないという性格と、今まで何一つ続かなかった私が滅私奉公をしてでも続けようとする想いを妻や家族、主治医も理解してくれたことが非常に大きかったです。
そんな私に転機が訪れました。
大阪大学で精神障害者の家族支援を研究している蔭山正子さんが精神障害者の恋愛や結婚をテーマにした本を企画しており、仲間から私にも声がかかりました。
私たち夫婦は妻が健常者という立場で打ち合わせから参加していたのですが、成り行きで私が編集長を担当することになり、自分の原稿を書きつつ仲間の書き上げた原稿に目を通して修正依頼をするという多忙な日々が始まりました。
いくら物書きを志していたとはいえ素人なのでずいぶん苦労しましたが、困ったときは助けてもらえるという程よいプレッシャーに加え、家族の支えもあり冬季うつが出ることもなく2年後の2020年8月に「精神障害者が語る恋愛と結婚とセックス」というタイトルで無事、出版することができました。
また、この本がきっかけとなり蔭山さんが精神障害者の恋愛支援についての研究の一環として、ピアサポートプログラムの「あいりき」をスタートすることになり研究メンバーとして参加しています。
私にとってこの2つの出来事は非常に大きく、以前から抱いていた退院と就労ばかりに支援が集中していて、余暇については自己責任というのは乱暴なのではという疑問に対して自分がピアサポーターとして何をしていくかが明確になったからです。
この気づきがきっかけとなり恋愛や結婚、仲間づくりや居場所といった人生の充実を応援するピアサポート活動に、重点を置くようになり現在も毎週オンラインフリースペースの「ハマッチャ」を試行錯誤しながら続けています。
本の編著に携わって以来、寛解してもうすぐ5度目の冬を迎えようとしているところですが、線維筋痛症の影響もあり就労からは遠ざかっています。
もちろんこうしたピアサポート活動が生活の足しになれば良いのですがまだまだ現実は厳しいです。
けれどようやく自分のやりたいことを見つけることができたので、次の目標は「やりたいことをやって生活の糧を得る」になっています。
とはいえ、妻や家族の理解と経済支援あっての生活になっているので悠長なことを言ってはいられないのですが、一気に何もかも解決させようとして体調を崩すよりも、今は寛解を維持しながら少しずつ取り組んでいけば今後の可能性も広がっていくと思っていますし、それも一つのリカバリーだと思いながら、あまり気負わずにこの先も楽しみながら歩んでいこうと思っています。