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被爆2世として、痛みと共に生きて〜涙に虹がかかるまで〜

昨今、世界では紛争や自然災害が絶えない。どれだけの人の運命が左右されているのかを思う。 

1945年8月9日午前11時02分長崎市上空に一発の原子爆弾が投下された。当時の長崎市の人口 24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡、建物は約36%が全焼または全半壊した。この事実 は、私達家族の歴史でもある。私の祖父も原爆犠牲者の一人であり、母は被爆者の一人であり、 私や弟は被爆2世にあたります。  

大人になってから知ったのですが、祖母は私と同じ統合失調症でした。そして今思うのです。 「私はいつから精神疾患だったのでしょう?」と。  

私が生まれたのは父の故郷の長崎県佐世保市で、母の故郷から50kmは離れているでしょうか。 当時9歳だった父が家事を手伝っていた時、長崎市の上空に炸裂する原子爆弾の眩い光とキノコ 雲を見たと言います。その夏から、父と母は戦争に、時代に巻き込まれながら、懸命に生き、学 び成長していき、そして後に結婚して、数年後私や弟を授かりました。  

本屋に勤めていたことのある母は、私達姉弟に、本を読み聞かせしてくれ、繊細で真面目に育ててくれました。残業や接待で多忙な父は、殆ど家に帰らずそれでいて職を転々としていました。     

私が6歳の夏、父の転職先で、佐世保市と長崎市の丁度中間の位置する大村市に移り住みました。私は佐世保の親しい友達から離され、大村市の幼稚園に入りました。佐世保で着ていたひとりだけ違う制服姿で暫く通って、かつて活発で人気者だった私は次第に遠慮がちな真面目でおとなしい子供に変わっていきました。小学校2年まで仲の良い友達もできて安心したのも束の間、ベビーブームだった私達の学校は二つに分けられてしまいました。わずか2年半の間に、親しい友達から2度も引き離された私は、学校から逃げ帰るように家族に救いを求めるようになりました。  

小学校3年生の夏。予備知識として「おじいちゃんは原爆でお母さんがまだ赤ちゃんの時に亡くなったとよ。だから、お母さんは1枚の写真でしか知らないの」と聞いていて、昼休みのとある教室に恐る恐る一人見に行った原爆写真展は私の死生観を狂わせたと言っていいかもしれません。  

無感情に並べられた「瓦礫」「首だけのマリア像」「原爆犠牲者」「黒焦げになって焼け死んだ 子供」セピア色の写真の数々で物凄い衝撃を受け、まるで被爆を体験してしまったかのように、 あまりの恐怖で身体の力が抜けてその場に倒れ込んだのを昨日の事の様に覚えています。幼い私は 教室の一角で原爆関連の本を曲解して「いじめられる」と思い込んで、本音を親にも、弟にも、 少ない友人には尚更、何も話せなくなってしまいました。  

人間が生きるに値する生き物であってほしかった。世界が愛に満ちていると信じていたかった。 何より戦争を起こす人間のエゴを恐れました。憎悪という感情自体を恨んだと言ってよかった。 憎しみからは何も生まれない事を教わり、核兵器廃絶を心から願いました。たとえそれが誰かが 言う理想論で、夢想に過ぎないとしても。  

いつもお腹を空かせ痩せ細っていた私の救いになったのは、絵を描くことが許されていた事でした。紙と鉛筆があれば何もいらなかったようです。弟は運動も勉強もできる穏やかな性格で仲良しでいつも一緒に遊んでいましたが、姉の私は「悲しみの雨が止むのを待っている事しかできない子供」でした。  

父は、たまに早く帰宅するとテレビの前にいました。お酒が入ると、僧侶だった祖父の厳しかった躾の愚痴を零す弱い所がありました。中卒だったことで、妻や子に馬鹿にされているという妄想があり、残念なことに転職の度、威圧的になり弱りきったのか、遂には「カルト的な健康器具販売」の仕事につくと「俺を信じないのか?」と更に声を荒げるように威圧的に変わって 行きました。  

中学生になった私は、「両親が死んだら自分も死のう」と人生に夢が全く持てなくなってし まって、勉強に身が入らなくなっていきました。なぜなら、父が母を病気になっても中々入院させない「超自然的な何かの信者」になっている事をどうする事もできなかったからです。   

高校生の頃には美大を薦めてくれる先生もいて、学校全体の文集の表紙に私の絵を使ってくださった事はとても嬉しい事でした。ですが、当時進学することを選べませんでした。   

人生最初の上司は父でした。私は、事務的なことは母に教わりながら、父の秘書であり、車の運転手であり、荷物持ちである生き方を選んでしまったのでした。普通に就職した弟は疑問に思っていた事でしょう。ですが、私は体調不良に悩まされており、何処かまだ親に甘えていたのかもしれません。私は父のマインドコントロール下にありました。  

しかしながら、それも長くは続きません。自分の健康管理に無頓着だった父が高血圧が酷く性格がキツくなっていき、ますます家庭内がガタガタな状況になりました。  当時の父は、母がどんなに体調を崩して、目が見えなくなっても病院に行かせない「超自然的何か」を狂信して、それはどんどんエスカレートしていきました。父に強い反感を持つ事を禁じ得ず、遂に自分の思うありったけの正論で父を批判しました。それがきっかけで、父は仕事場に寝泊まりするようになり、数年帰宅しませんでした。  

父が家を離れて、母の眼の手術ができました。ようやく私も就職して家計を楽にしようとしましたが人間関係がうまくいきません。私の能力は心労によって削がれていました。  

父は家に戻って来るなり脳出血で倒れてしまいました。その頃伯父が亡くなるなど悪い事が続き母や伯母の落ち込みがひどく、励ます事もままならぬ自分の器の小ささを不甲斐ないと感じました。言語障害になって子供に返った様な父の介助を懸命にしていた私でしたが、友人や従兄弟達にすら父の仕事に反感があり拒絶されていました。打たれ強い娘を演じていた私でも、自由もお金も元気も無くなっていき、ついに困り果てました。  

ただ、家族の笑顔を守りたかっただけなのに、何もかもうまくいきません。気づけば「何者でもない自分」が居ました。図書館へ通う日が何ヵ月か続きました。人生に疑問だらけだった私は昼夜問わず、思想家の本などを読み漁りました。そして身体を鍛える為に1日10キロは歩き回りました。賢く、強くなりたかったのです。でもそれは叶いませんでした。遂に私はガリガリに痩せ始め、無理が祟り心身共に限界を超えてしまったのです。  

私の解釈ですが、過度のストレスからの脳の誤作動の様なものが始まりました。それが、私にとっての病、統合失調症のはじまりだったかも知れません。 

病名が付いたのは30代前半でした。時代は同時多発テロ以降だったと思います。当初は、被害妄想が酷く、TVから入って来る全てのニュースが他人事とは思えなくなり、どんどんメディアに敏感になっていきました。中でも戦争に関することはトラウマになりました。やがて、あらゆる言葉が突き刺さる様な嫌がらせに感じ、「世の中全てから批判されているという妄想」が起きました。誰より戦争を嫌う私が何故かテロリストの疑いをかけられて持ち物を何者かが調べているという妄想、好きだった野球中継からも自分を批判する声が聞こえ始め、いろんな音に意味を拾う様になり、遂に食べ物も喉を通らなくなりました。  

やっとやっと、精神科にかかる事ができたのですが、強い薬の副作用で体調はころころ変わり、 いくら薬を飲んでも楽になるどころか、自分を罵る独り言が酷く、昼も夜も頭は冴え渡り考えが止まらない…ほとんど眠れない日々が始まりました。入院中は、苦しみの酷さから「お願いだから早く殺して」と母に電話した程でした。  

それでも3カ月ほどの入院で少しだけ楽になりました。それは他の患者さんとの話の聞き合い、 語りあい…ピアカウンセリングの様なことを繰り返して、落ち着いて周りが見えるようになると 「あらゆることに感謝の気持ちを持とう」と考える事ができるようになったからです。そして、病識が生まれ、自分に障害があることを認めはじめました。  

私に欠けていたのは思いを言語化する事。明らかに人との交流でした。  病院のソーシャルワーカーさんからの情報も助けになり、私は意識的に前向きに変化する努力を 始めました。薬だけで人生が好転することはないからです。病気は辛いけど自分だけじゃないと 思う事は何より救いでした。  

心配してくれる弟の支えにもようやく気づき、具合が悪いからと何もしないで過ごすのが苦痛になり始め、辛いからと寝てばかりだった私は変わり始めていました。しだいに就労への意欲も生まれてきました。  

やがて、車で片道40分の障害者就労支援施設に通うようになりました。そこには様々な障害を持つ人との出会いがあり、雑談の楽しさを知り、凝り固まっていた心は益々解けていきました。  

ある日、楽しそうに掃除をする、障害を持っていても真面目で明るい男性と出会いまし た。

話すと実は幼稚園から高校まで一緒だった彼とは馬が合い、色々な社会資源や、元気に役立つ事を教えてくれました。その中に、元気であるための工夫を学ぶWRAPがあり、ピアカウンセリングが あり、当事者会活動がありました。それらを学ぶ事により私の病状は少しづつ軽くなりはじめ、 次第に独立したいと思うようにもなりました。  

大怪我で入院した私を毎日お見舞いに来てくれた彼に、私からプロポーズできる程、幸せになることに意欲的になりました。訪問看護でお世話になったある看護師さんも私達の結婚を応援してくださいました。  

しかし、これまで何もかも上手くいかなかった私です。そんなに簡単に幸せになれるでしょうか? 一時は怖くなり私は病的に自分自身を亡き者にしようとしました。しばらくの間自分自身を見つめ直す時間を持ちました。  

幸せを作ることは容易ではありません。そして壊すことは簡単に呆気ないものです。その事に気 づき再び彼にプロポーズしてOKをもらいました。完全な生き直しの始まりでした。 

今度は家族に結婚を安心して認めてもらう為に、私達がとった行動は、不測の事態に備えWRAP プランを作る事でした。結婚してからも、お互い何度か入院しましたが、不安に思うことはほと んどありませんでした。  

私にとって、独立・結婚生活とはできることをひとつひとつこなす事。そして何より思いを言語化する事です。結婚した年の秋に行った新婚旅行先はWRAP集中クラスでした。自分の人生に主 体的でいることを更に貪欲に学ぶ日々が始まりました。夫と共に学ぶ日々の生活の工夫、当事者文化はどんどん私を元気にしてくれました。  

イラストや手芸の技能を活かし、就労継続支援B型事業所に通いながら、当事者活動の幅は年々増していき、現在もほぼ毎日夫婦でピアカウンセリングをして気持ちのケアをするようにしていま す。  

悩みの共有はむしろ強い絆になるようです。  

「感謝と気づき」があります。私たちは、どんな立場であっても、「毎日何らかの幸運に出逢っている」ということです。チャンスを見逃さなければ、卑屈に苦しさの中に閉じこもらないでいられます。引っ込み思案をやめた私は、やっとやっと「悲しみの雨が止むのを待っている事しかできない子供」を卒業できたのかもしれません。  

現在の私は、夫と新聞や市政だよりに載ったり、全国の書店に自分の挿絵の本が並んでいたり、 パパゲーノの皆さんと作成した絵本の寄贈で大村市の市長さんにお会いして感謝されたりしていま す。当事者ながらイラストレーターになれたと言って良いでしょう。  

幸運から逃げずしっかり掴まえて行こうという心掛けは人生を豊かにしてくれたように思います。 こんな気持ちになれたのには理由があります。仲間たちとの活動から得た学びが一番大きいので、ご紹介します。  

月に3回の例会を行う”ピアサポートみなと”(語り合いのボランティアグループ)と、月1回例会 の”おおむら麦の会”(精神障害者当事者会)の運営。大村市のピアカウンセリング事業や、ぴあねっと通信(障害と生きる人のフリーペーパー)作りに参加した事も大きな経験で、WRAP ファシリテーターとして集中クラス、定期クラスを開催していました。また、リカバリーカレッジをご自分の夢として挙げられた長崎大学のT先生とピアサポートみなとの仲間とともに、障害者の生涯学習活動に3年間講師として参加するなど、元気であることへの責任感も身についてき ました。私たちは限られた時間の中で経験から学び「よい習慣」を備えていきながら、結局は 極々シンプルに、『できる事をひとつひとつ』こなして命を繋いでいくだけなのだという事。結果よりプロセスを大切に『いまここに生き』たのしみながら日々を充して行くだけなのではとい うことを学びました。  

「迷ったり、辛い時に『できる事をひとつひとつ』と唱えながら頑張っている人いたな」と、思い出していただけたり、私の描く絵で皆さんの励みを彩られたらという思いです。  いつか皆さんとお目にかかるまでに、どんなに小さな事でも毎日『できる事をひとつひとつ』こ なして…やがていつかは「代わりの居ない社会資源の様な人」になりたいと思います。